数年ぶりに、中学時代の同級生たちと集まってきた。
別に見下したいわけでも、自分が特別だと思いたいわけでもない。 ただ純粋に、「あいつ、今はどんなこと考えて生きてるのかな」という、今の彼らの輪郭を知りたかった。大人になった僕らが、それぞれの場所で積み上げてきた「今」を持ち寄って、少しだけ深い話ができればいいな、なんて期待を胸に。
けれど、いざ蓋を開けてみると、そこは想像以上に「上っ面」の、いや、もはや上っ面すら見えないほどの「思い出の霧」に包まれた空間だった。
会話のメインは、15年前の記憶。 僕が知りたかった「最近の仕事の話」や「大切にしている価値観」は、身内ノリという名の強力な結界に阻まれて、なかなかテーブルの上にのぼらない。 なんとか場を盛り上げようと、少し自分の話を大袈裟にしてみたり、ストレートな質問を投げてみたりもしたけれど、どうやら僕の投げたボールは、彼らのグローブには種類が違いすぎたみたいだ。
ヒゲのスタイルを揶揄されたり、信頼して相談したつもりの話がいつの間にかエンタメとして共有されていたり。 向こうに悪気はないんだろうし、彼らなりの「励まし」だったのかもしれない。 でも、その善意のすれ違いが、なんだか可笑しくて、それでいて少しだけ切なかった。
高校時代の友人と会うときは、不思議とこういう違和感がない。 けれど、中学という「偶然の集まり」から始まった関係は、大人になって住む世界が変わるほどに、根本的な「噛み合わなさ」が浮き彫りになっていく。 相談したことへの反応ひとつとっても、僕が求めていた距離感と、彼らが差し出す空気感は、もう交わることがないのだと実感した。
結局、お互いの「現在地」を教え合うこともないまま、夜は更けていった。 「またな」と手を振って別れた後、どうしてもお腹が空いて、吸い込まれるように富士そばへ。
もりそばとミニカツ丼。 今日という日の、なんだか噛み合わなかった歯車を、このセットと一緒にゆっくりと咀嚼していく。
あぁ、僕はもう、あの頃とは違うリズムで生きてるんだな。
それは寂しいことではなくて、自分がそれだけ外の世界で、自分の人生を積み重ねてきたということなんだと思う。 みんなが良いと思うものより、自分が納得できる場所や価値観を選びたい。その感覚が、今の自分にはしっくりくる。
期待していた「近況」は分からなかったけれど、「自分の現在地」はよく分かった。そういう意味では、なかなか面白い時間だった。
明日からは、また僕のリズムで。 自分に合う場所で、自分に合う言葉を大切にしながら、やっていこうと思う。